何事においても物事には、始まりがあれば終わりがあるものです。人々が文明開化に沸いた明治時代、人知れず終焉を迎えた文化圏がありました。それまでの社会にとって規範とされた武士の時代が潰えたのです。武家社会という最大の依代を失った刀剣は、その後どうなったのでしょうか?
刀剣をご案内する機会があるたびに、現代刀と呼ばれる美術刀剣が今なお生み出されていることをご紹介するのですが、多くの方が驚きの表情を浮かべます。作刀が続いている事実だけを鑑みると、刀の歴史は今だ脈々と継承されている様なイメージを受けるからでしょうか、はたまた新たに作られた刀の用途のイメージが湧かないからでしょうか?おそらくその両者であろうと思いますが、今日の風潮に至った最大の出来事は廃刀令であったといえます。
廃刀令は、明治9年3月29日に発令されました。西洋の近代文明を模範とした明治新政府が立てた基本方針は、意外にも復古思想でした。そのためには神道を再興し、仏教渡来以前の日本に立ち戻ることを目指したわけですが、同時に士族の特権及びその精神的支柱を奪うことにも躍起になりました。
廃刀論の登場は、明治2年に森有礼が公議所に提出した「官吏兵隊以外の廃刀を自由にする」という意見にはじまり、同4年の散髪廃刀の許可、翌5年の徴兵告論における「雙刀ヲ帯ビ、武士ト称シ、抗顔座食シ、甚シキニ至テハ人ヲ殺シ、官其罪ヲ問ハザル者」と武士全否定の方針が展開し、明治8年の徴兵令にて陸軍郷山県有朋が廃刀すべきことを進言した結果、翌9年の帯刀禁止令(以下、廃刀令)の発令へと向かいました。
しかしながら、帯刀を禁止することは士族にとって唯一の特権や精神的支柱を奪う行為であったことから、抑圧された士族の怒りが爆発します(新風連の乱)。旧熊本藩士を中心とした新風連は「我国固有の刀剣を禁諱」したことに憤って挙兵し、その後も萩、秋月の乱、そして西南の役へと事態を悪化させるほどの一大事であったことが伺えます。
この頃廃刀令とは別に、近代戦における刀剣の実用性は後退し、刀剣の需要は著しく減少しており、新々刀期の名工左行秀・斎藤清人などが存命であったにも関わらず作刀の需要は先細りの一途を続けました。旧相馬中村藩工の大慶直胤門人慶心斎直正は失意の中自刃し、同門人細田次郎直光は偽名切りで生計を立て、石堂運寿是一は鉋鍛冶に転向、月山貞一ですら偽物を作るなど、刀工にとって不遇な時代が続き、ついに刀剣の歴史に終止符が打たれたのでした。
では、なぜ現代に刀工がいて作刀を続けているのか?という単純な疑問が浮上するわけですが、その後の日本は富国強兵の旗印の下、日清・日露の両役を経て日本刀に対する評価がジワジワと再認識されるに至りました。どうも、この再認識への転換は明治20年代から始まっていたらしく、実質的な刀剣の滅亡期間は約10年間ほどであったと考えられます。ただし、この期間は、ほぼ全ての刀工を廃業に追いやるには十分な時間であり、それでも頑なに糊口をしのいで生き延びた月山貞一は明治39年に帝室技芸員となり、横山祐包門人宮本包則も帝室技芸員として没するまで作刀を続けました。
つまり、実質的な現代刀匠の祖は、上記二工に端を発しており、彼らの努力なしには今日の刀剣文化の継承は絶望的であったという事実を知って頂きたいと思います。また、廃刀令により数多の作刀技術は失伝しており、武器としての性能を求める時代ではないことからも、現在は美術刀剣という全く新しい定義の下に再構成された美術品として世界中で愛好され続けているのです。